[幕末の算法]

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 【原田能興】水野忠邦の家臣原田団兵衛能興は、関流の和算家藤田嘉言の門人である。文化十四年(一八一七)九月、藩主忠邦に従って唐津(佐賀県)から浜松に来住すると、同藩の武士・町人などに和算を教えた。【渡辺謙堂】その門に金指(引佐郡引佐町)の渡辺兵治謙堂がある。謙堂は嘉永五年(一八五二)に遠江地方の地図「遠江小図」を作製している。これは木版印刷で地方版としては珍しいものである。天保十三年(一八四二)十一月見題の免許状を授けられている。
 能興は各種の算題を記した算法問題集『諸算題』五巻(日本学士院図書室所蔵)を著わし、また別に扇面を用いた算題一問を作り、文政五年(一八二二)九月、秋葉社(当市三組町、秋葉神社)に奉納している。弘化二年(一八四五)藩主の移封に従って奥州山形へ移った。
 関流六伝内田恭の高弟小松式部恵竜(一八〇〇-一八六六、号無極子)は、京都嵯峨御所天文測量方を勤めたのち、諸国を遊歴して各地で算法を教えた(『和算研究集録』)。遠江には天保十二年(一八四一)に来遊し、浜松に逗留している。『諸邦門人自筆名録』によると、当地方の恵竜の弟子にはつぎの人々がある。
 
 「浜松藩         軽部佐一郎敏武
  引佐郡金指町      渡辺兵治謙堂
  敷智郡浜松宿      川上三九郎貴行
  敷智郡浜松宿      清水清吉廉慶
  敷智郡浜松五社神社祠官 森讃岐守猶竜
  敷智郡浜松宿      小池権十郎薫運」
 
 嘉永七年(一八五四)二月十八日、竜禅寺(当市竜禅寺町)の本堂に算法の額が奉納された。これは上嶋(当市上島町)の中村智恵蔵補主が掲げたもので、算題が二問記されていた(戦災焼失)。【曽我碧潭】曽我碧潭は寛政十二年(一八〇〇)天神町村(当市天神町)の細井家に生まれ、大雄(だいおう)庵九代の住職となった人である。【算法見聞記】算法を木船(浜北市)の藤川春竜に学び、万延元年(一八六〇)冬問題百四題をまとめて『算法見聞記』を作った。また漢学をよくして柳橋と号し、門人多数を有した(柳橋の墓碑による)。慶応三年(一八六七)五月二十七日示寂した。
 【川上三九郎貴行】川上三九郎貴行(たかゆき)は肴町の人で天保十二年小松恵竜が浜松に滞在中点竄(てんざん)術(未知数二か所以上を用いた代数)を学び、研究して扇面算題等を作り賞賛された(『追遠発矇』『扇面算題一か条』)。貴行には錺屋幸八らの門人があった。文久元年十月二十八日八十五歳で没した。友人は算法の問題を三十八題作り、遠江の和算家に一題ずつ解答を乞い、貴行の三周忌(文久三年十月)に三十八題の問題、答および解術を川上家の壁に貼って追善供養の会を催した。【追遠発曚】この問題集をまとめたのが『追遠発曚』である。地方でこのような数学問題集が出版されたことは珍しいことである。
 前ページの表は『追遠発曚』に記されている三十八人のうち浜松地方の和算家二十二人の氏名と、文久三年(一八六三)当時の年齢である。
 【小池権十郎】小池権十郎は十軒新田(当市十軒町)の人で、薫運または一明と号した。天保十二年小松恵竜が浜松に逗留中算法を学び、のち明治初年に創立した付近の小学校で算術を教えた。明治十年八月十六日没し、十軒新田の林泉寺に葬られた。門人に加藤七郎次がある。
 【蒲清澄】蒲五郎清澄は文化九年に蒲神明宮の神官家に生まれ、三十一代を継いだ。文政十年(一八二七)から楚州(そじゅう)について漢学を学び、天保二年から高林方朗(みちあきら)にしたがって国学を研究し、安政三年から六年まで木船の藤川春竜について算法を学んだ。明治維新の際は報国隊の一員として勤王に従事し、明治八年六十四歳で没した(『蒲氏家譜』)。
 【辻村久道】辻村作兵衛久道は志都呂の人で、師は不明であるが、天元(てんげん)術・点竄(てんざん)術をよくし、交友に大雄庵の柳橋・蒲清澄・川上三九郎・小池権十郎らがある。明治九年一月六十一歳で没した。
 【小粥博定】小粥惣十郎博定は通称を惣八といい、十軒新田の人で、近在の者にそろばんを教え、明治三十六年七十二歳で没した。
 【木村以徳】木村清七郎以徳は笠井新田の人で、のち小池(当市小池町)に養子し、青山保太郎と称えた。明治三十六年六十八歳で没した。
 【安間佐市】安間佐市は安間家の草分け安間家の人で藤川春竜に算法を学び、好易と号した。文久三年『追遠発曚』を編集し、明治三年六月没した。俳人安間木潤の父で、同家には多数の算法書が所蔵されている。
 『追遠発曚』の算題は数列に関する問題、截断面積の極大値を求めるため微分を用いて解く問題、二つの立体の共通部分の体積を求めるため積分を用いて解く難問題、積分を用いて解く点跡弧背(洋算のサイクロイドにあたる)の応用問題等種々多様であるが、とくに和算の最高級の円周上の点跡弧背の応用問題が含まれていることは注目に値する。【縵軒算叢】最近春竜の遺品中に見出された『縵軒算叢』四冊の中に、『追遠発曚』所載の問題と同じ算題が二十四題もあり、その詳しい解法も記されているので、『追遠発矇』の算題の出題者・解答者は春竜と推定される。いまから百年ほど前の文久三年に二十五歳の春竜がこのような難問、とくに和算の最高級の問題を解いていたことは驚くほかはない(塚本五郎『和算書追遠発矇について』)。
 【藤川春竜】春竜は俳人藤川阿人の長男で、天保十年(一八三九)木船(浜北市)に生まれ、初め掃部(かもん)、のち春竜と称し、蕉雪庵または縵軒と号した。安政二年十七歳で京都に赴き、小松恵竜について天元術・点竄術を学び、四か年で円理(洋算の積分学にあたる)截断までの免許を受けて帰郷し算法を教えた。のち浜松へ出て塾を開いたので、これら高級な算法を会得した者もかなりあった。春竜は万延二年から四か年江戸の大村一秀について円理截断術の奥儀を極めたので、難問を含んだ『追遠発曚』が成立したのである。また春竜は元正紹(禅統)について漢学を、有玉の有賀豊秋に和歌および皇典を学び、平田銕胤に入門してさらに皇典を研究、明治三年ごろ北朝隣、塚本明毅について西洋数学を学んだ。【関流七部書解】明治四年から浜松郷学校・名古屋中学校を歴任して数学を教え、大正十三年七十六歳で隠退してから以後十三年間に『関流七部書解』九巻、『適尽法全伝』、『不休綴術』三巻、『招差五条伝解』など十六種二十七巻の書を著わした。昭和四年九月二十三日九十一歳で病没した(『藤川春竜翁小伝』)。

渡辺謙堂作遠江小図(浜松市鴨江 渥美静一氏蔵)


安間好易編追遠発矇(浜松市城北 塚本五郎氏蔵)

氏名年齢
江馬竹三郎伊包22
山内喜三郎知一 
辻村作兵衛久道48
馬渕孝之進喜吏20
馬渕金吾矩門17
竹村又蔵広足 
岡本利右衛門孝通 
田口源六致真 
川上三九郎貴行没後2年
川上三九郎知道約38
川上馬之助知臨13
山本源助君達40
清水清吉廉慶 
小池権十郎薫運 
小粥惣十郎博定32
蒲里逸清澄52
小枝佐右衛門忠弘 
安間佐市好易約63
飯田治兵衛徳久 
田辺清左衛門篤風43
木村清七郎以徳28
曾我碧潭柳橋64


遠江和算家の系統表