源吉は享和元年(一八〇一)に、このころ世人から鬼因徹といわれた美濃の服部因徹(井上因碩の高弟、六段)と対局している。これは江尻宿の佐藤九平治宅、庵原村柴田権左衛門宅で行なわれたもので、対局は二月十五日から三月十三日まで二十一局におよび(『碁経亀鑑』)、源吉が先相先(せんあいせん)で勝負勝であった。これは有名な話で『囲碁見聞誌』は「後世高段なる人々の評に源吉先相先にて勝負勝となりしは囚徹の出来宜しきなりとの沙汰あり、然らば源吉の芸は已に上手に近き業とみゆ」と記している。この当時徳川家から俸禄を賜わっていた家元には、本因坊・井上・安井の四家があり、その家元および跡目(後継者)以外の碁客の中では服部因徹が強く、それについで源吉が素人碁客の最強者であったといえる。源吉は享和三年正月本因坊十世烈元より五段を許され、本因坊門下第一の高弟とみられるようになった。
【方円軌範】源吉の著に文化八年三月、碁の配石百番を記した『方円軌範』がある。同十年出家、浜松に閑居して後進の指導にあたった。文政八年(一八二五)九月一日六十三歳で没し、天林寺に葬られた。【六段追贈】当時の本因坊十一世元文は、文政十年とくに六段を追贈している(没後このように本因坊家で、高段者に特別の免許状を贈ることは珍しいことである)。
服部因徹山本源吉対局図(浜松市城北 塚本五郎氏蔵)