間野桂山

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 【武藤五太夫】このうち間野桂山は浜松第一の碁客と推定され、武藤五太夫は下飯田村(当市下飯田村)の庄屋で、安政四年六月安井算知から二段の免許をうけた(安政二年四月二十七日に没しているので、没後に二段の免許を追贈されたものであろう)。【岩井半十郎】岩井半十郎(一八一〇-一八八三)、のち気賀と改姓)は気賀(引佐郡細江町)の名家で、文久二年(一八六二)初段の免許を得ている。
 【水野秀哲 駿遠棋競】安政五年(一八五八)六月、平尾村(掛川市)の二段水野秀哲は『駿遠棋競』を作製した。当時としては珍しい囲碁の番付である。【伊藤徳兵衛 藤田文作】これには当時遠江の有段者として、伊藤徳兵衛五段・水野秀哲二段・藤田文作初段をはじめ遠江百二十八名、駿河で百十七名、合計二百四十五名が記されている。このうち遠江では横須賀・浜松・二俣・気賀・佐浜・安間・山梨・掛川・三沢等の数が多く、なおその人名から察すると富豪・庄屋・僧侶など比較的暇があり、文芸・娯楽等を楽しむ余裕のある人々と思われる。
 秀哲(一八二二-一八七六、通称佐右衛門)は平尾村に生まれ、碁を三沢村(小笠郡菊川町)の五段伊藤徳兵衛について学び、二十三歳で本因坊丈策から初段を、三十二歳(嘉永六年、一八五三)で本因坊秀和から二段を許された。そののち、安政年間駿遠各地を遍歴対局してこの番付を作ったのである。
 【寛政以後】寛政(一七八九-一八〇〇)以後遠江・駿河においては山本源吉・庵原の柴田樵山(初段)・戸塚勘之助(初段)・三沢の伊藤徳兵衛(五段)の指導により、囲碁が普及し、各地で碁会が催された。また番付も多く作られている(前表参照)。
 【幕末の入段者】ちなみに入段者を記すと慶応元年(一八六五)にはつぎの十一名に達している(『展名会』)。
  五段 伊藤徳兵衛 三沢村    三段 二宮快蔵 島田
  二段 小沢雄蔵 瀬戸(藤枝市)  二段 水野佐右衛門 平尾村
  初段 松山相模 岡部村     初段 藤田文作 金谷
  初段 松井官兵衛 駿府     初段 杉山清一 岡部村
  初段 渋谷鉄蔵 駿府      初段 天野伊佐吉 江尻
  初段 岩井半十郎 気賀
 しかし、これ以外にも初段に近い実力を持った者が多数あったと思われる。
 
名称(内容)年次日数会場および作者名人数
鑑正他の人数主催と補助
  浜松
山本源吉吉追善囲碁会文政93月自20日7日間伊藤平左衛門宅不明7
至26日
  浜松
追善囲碁稽古会(源吉追善碁会)嘉永53月自6日15日間山本源右衛門宅3241
至20日
  掛川
生隠集小引(水野佐右衛門の二段披露碁会)〃65月25日14日間円満寺5241
6月9日
  島田
囲碁開莚(二段快蔵の初段披露碁会)安政28月自18日10日間長徳寺9881
至27日
  平尾村
駿遠棋競(番付)〃56月水野秀哲作 245 
  駿府
囲棋開莚(柴田樵山の追福会)〃〃7月自16日10日間会錫寺141207
至25日
  気賀村
棋囲初階開莚(岩井半十郎の初段披露碁会)文久24月自12日3日間岩井半十郎宅12381
至14日
  岡部村
駿河囲碁名鑑(番付)〃3松山相模守作 156 
  掛川
展名会(今井金右衛門の初段披露碁会)慶応元9月自18日7日間天然寺12751
至24日
  相良湊
曾根維久追善囲碁開莚〃29月自18日7日間法泉寺1不明8
至24日