藩には多くの武芸者があったが浜松藩の場合はわずかに井上氏時代(一八四五-一八六八)の史料があるのみで、それ以前のものについては判明しない。
井上藩で武術に秀でた者は、剣術では直真影流浅村太兵衛、柔術では浅山一伝流上遠野杢右衛門・随変流大島安兵衛、馬術では渡辺高右衛門・臼井桃助、兵学には名倉予何人(あなと)があって、それぞれ藩の子弟を指導していた。ことに渡辺の馬術は当時秀れたものとして知られていた。また砲術には森重流に永田又兵衛、上遠野杢右衛門、豊田流に細田与右衛門があり、新しく飯島新三郎がオランダ砲術を教えるようになって更に充実された(内田旭「浜松の藩学」『郷友』第一号)。砲術といえば、青山氏時代に箕浦又市が米津浜で鉄砲の射撃演習をしている。又市は鉄砲師範だったろう(第四章第四節)。【町道場】なお浜松で町道場を開いて剣術を教えた者には、袋町(いまの松城町・紺屋町)に小林平之進、七軒町(いまの菅原町の一部)に天野大治郎、秋葉社社前(当市三組町)に峠権左衛門などがある(大正十五年発行『浜松市史』)。
【峠権左衛門】峠権左衛門(諱忠重)は天明・寛政(一七八一-一八〇〇)ごろ浜松の秋葉社前に道場を開き、峠流の達人として知られ、門弟は数百人におよんだという。文化三年八月十五日五十七歳で没した(成子坂町法林寺に葬る)。
【峠一虎】また権左衛門の養子峠一虎(天明六年頭陀寺村に生まれる)も、方集流剣術をよくし、その武技は権左衛門以上と称せられるほどであった。のち江戸に出て無念一刀流の諸派と試合し勇名をはせたが、文政七年金比羅宮に参詣のさい岡山で病没した。四十二歳(法林寺に葬る)。