[弓術]

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 【的場ケ丘】いま市内広沢に通称的場ケ丘という所がある。古くは御的場といわれ家康が弓術を練習したところと伝えられる(『曳駒拾遺』)。また古地図には矢場という地名があり(いまの文丘町あたり)、弓術の練習所であったと思われる。遠江では早くから一般庶民に弓術の習練が許されていた。
 江戸時代には各地の神社仏閣および弓術家の屋敷には矢場が設けられ、ことに神社では奉納の競射会が盛んに行なわれた。【流鏑馬と競射会】西遠地方では有玉神社(当市有玉南町)、女河八幡宮(浜名郡湖西町新所)の祭典行事として流鏑馬が行なわれ、桜木神社(掛川市桜木)の神事には古風な射法が行なわれた。奉納の競射会は神事とまったく別で、二日にわたる神社の祭典に、近郷の同好者が流派を問わず矢場に集まり終日射的を競う。【金的】競技方法は的をしだいに小さくしてゆき、その日の最後には直径二寸(六㌢)の金的(きんてき)をおいて射る。これは的の中では最小で、金箔の紙が張ってあるため金的という。的は射小屋から普通十五間(二七メートル)の距離にあって、射あてることは困難である。したがって金的を射あてることは名誉なことで、後日金的を当てたことを板の額に書いて、その神社の拝殿または射小屋に奉納した。【金的中額】これを「金的中」の額という。浜松地方では利町の諏訪社・鴨江寺・竜禅寺・頭陀寺・賀久留神社・蒲神明宮・末嶋の御嶽神社・笠井の若倭神社などには各々矢場があって、「金的中」の額が掲げられていた(いずれも戦災その他で失われ、現在残っているところは少ない)。
 遠江でもっとも古い金的中の額は安永六年(一七七七)のもので、他の金的中と異なり紙に記されている(第一図参照)。普通は板に墨書したものが多く(第二図)、頭陀寺には浜松藩の家老が奉納した金色に輝く豪華なものもあった。現在寺社に奉掲された金的中の額の数を正確に知ることは出来ないが、つぎに流派別・年代別に表示する(昭和十八年ごろ調査)。
 以上のほかに調査もれの分もかなりあると推察されるが、賀久留神社では延享三年(一七四六)以前、鴨江寺・諏訪社でも安永年間以前から競射会が行なわれた。
 藩士として幕末のころ久保田竜兵衛は弓槍の達人として知られていたというが、よくわからない。
 【弓師 矢師】弓師に下垂(しもだれ)町弓藤、矢師に紺屋町文治郎があった(大正十五年発行『浜松市史』)。
 【日置流】弓術の一派に大和(やまと)の日置弾正正次の創めた(室町中期)日置(へき)流がある。その流れをくむものに吉田流・日置流雪荷派・日置流印西派などがあり、遠州地方では主に雪荷派・印西派などであった。

[金的中]第一図 第二図

社寺名額の数
 印西派雪荷派不明小計
浜松諏訪社  11
蒲神明宮4 15
竜禅寺 112
鴨江観音46313
白華寺11 2
御嶽神社1  1
若倭神社1  1
大歳神社43 7
頭陀寺11 2
賀久留神社4239
曾許之御立神社81110
 28151053

寺社名賀久留神社大歳神社白華寺鴨江観音浜松諏訪社
年号     
延享31    
安永   31
天明2    
寛政・享和   2 
文化     
文政11   
天保 111 
弘化・嘉永 21  
安政・慶応     
明治 1 5 
大正 1 1 
昭和21   
不明3  1 
972131