印西派

602 ~ 603 / 686ページ
 【吉田重保 上村清兵衛父子】印西派は吉田与左衛門重保(日置流印西派家元吉田久米之助宗重の次男、諱如玄)の教えをうけた見付(磐田市)の上村清兵衛正長・正敬父子によって、この地方の民間に拡められた。この吉田重保は弓術の師範として横須賀(小笠郡)藩主本多利長に仕え、延宝二年(一六七四)に上村家に逗留している。
 【上村正敬】上村正敬(号を戌亥という)は八歳のころから父正長および重保から弓術を学び、印西派の奥儀を極め、門人も多く中でも森町(周智郡)牛飼の寺田七右衛門、蛭池(磐田郡福田町)の八木半左衛門、野部(磐田郡豊岡村)の久志目半左衛門、北嶋(当市北島町)の大橋主殿などが秀れていた。遠江民間の弓術は、浜松以東金谷(榛原郡金谷町)あたりまでが大部分印西派であった。
 【木野理兵衛 竹山孫左衛門】浜松周辺における印西派は大橋主殿・左京父子らによって、また上村家に伝えられた印西派の主流はそののち袋井の木野理兵衛を経て天王の竹山孫左衛門(のも陽左衛門)に移ってからは、中遠地方にまでその系統は拡がった。
 【曽我柳橋】大雄庵の曽我柳橋(第七章第一節および本節三和算の項参照)も竹山孫左衛門に師事し弓術家として知られている。

印西派系統表