万人講

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 万人講 ここでは報徳社の人々によって結ばれた万人講について述べよう。【定宿】これは伊勢大神宮・南都春日大明神・石清水八幡宮の三社に、灯籠を建立・太々神楽を奉納・代参を派遣し、その神徳に報いるのを目的としたもので、弘化二年(一八四五)八月の講中定宿をみると、浜松宿では連尺町鍋屋三郎兵衛、伝馬町花屋惣蔵、吉野屋弥右衛門、篠原村で浅田屋善兵衛、舞坂町では茗荷屋清兵衛が指定されている(神谷与平洽『三社灯籠万人講定宿付』)。【神谷与平治】ところがこの万人講は、主唱者杉沢作兵衛・浅田勇治郎が死去するにおよんで、安居院庄七ひとりのみでは世話が行きとどかないようになったところから、仕法を改め、下石田村の神谷与平治を中心とした遠州の報徳連中がこれを継承することになった。文久二年(一八六二)六月で、これは明治におよんでいる。