この遠州大念仏のはじまりについては、一つの伝説がある。元亀三年(一五七二)武田徳川の両軍が三方原で戦ったとき、武田勢は徳川方の計略にかかり、犀ヶ崖で討死したものが多かった。その戦死者の亡霊が無数の蝗(いなご)となって農作物を食い荒らしたので、家康は宗円という僧に命じて犀ヶ崖のほとりで、亡霊供養のため大念仏を行なわせたところ、それ以来たちまち蝗は絶えたというのである。
しかし大念仏については二つの要素があり、一つは戦死者の亡霊をなぐさめる供養のためであったこと、今一つは農作物の害虫を避けるためであったというのが定説である(中道朔爾「遠州大念仏について」『遠州郷土読本』)。【道場】いま県指定史蹟の犀ヶ崖には、遠州大念仏の道場としての宗円堂がある。
【記録】大念仏の由来に関する最も古い記録とされている『旅籠町平右衛門記録』(『浜松市史史料編一』には、浜松大念仏または犀崕念仏と称えたこと、天正元年(一五七三)ころから初盆の家を廻ったこと、浜灯籠(切子灯籠)弐つ、幡四本、のぼり一本を作り、鐘太鼓をたたいたことなどが記され、また文政十年(一八二七)ころの成立といわれる『糀屋記録』(『浜松市史史料編一』)には、「右犀ヶ崖念仏堂に集り、大念仏を唱へ、夫より町在所々江罷越、念仏修業、是より初ると申伝候、町方ハ余り混雑致し候ゆへ、自然と相休み申由申伝ニ候」と書かれている。