大念仏の停止令はしばしば出されたが、そのうち最古の文献といわれる『下大瀬村年代記』延享三年(一七四六)の条に「とったか念仏・六才(斎)念仏御停止の御触ハ勿論、今度四組一統相談之上、末々迄相止メ申筈ニ俣」「亡者新仏有之者へ他所より夜念仏参候共一向請申間敷候」とあり、そのなかにとったか念仏や六斎念仏、夜念仏という異称も出ている。なお『伊場村御配符留書』にも、宝暦二・八・九・十年と続いて禁令が出ている。
規律正しい厳粛な宗教的行事であった大念仏も、たがいにその演技を競うという弊害を生み、新盆の家の庭先で着到を争い、すれ違いで囚縁をつけ、口論の果ては乱闘となり、道具を破壊し、ついに流血の惨事をひき起すこともあった。このため一名喧嘩念仏と異名がつき、互いに勢力の増大に努めた。記録によれば紛争は享保から嘉永年間までくり返され、これがため奉行所や代官から度々禁令が出されたが、民衆の大念仏に対する強い意欲のためか徹底されず、どこかでひそかに行なう組があって、村役人もこまり、小前の連判証文を取るなどした。