凧揚げは、その後浜松の城下町でしだいに華美に行なわれるようになったので、当時の為政者はしばしば取締りの禁令を出している。文化四年(一八〇七)には凧の大きさは四尺四方に限り、華美の絵模様を禁じ、初凧に際しては飲食を質素にすることを厳達した。天保年間には水野忠邦も、初凧祝儀・凧の寸法・彩色・図柄、さては馳走などにも及んでいる。『有玉村高林家諸用記』(『浜松市史史料編三』)によれば、嘉永元年(一八四八)代官からの触書で、大振の凧を禁じ、さらに嘉永三・五・七年、安政三年・慶応二年にも、同様倹約令が出されている(第六章参照)。