浜松の凧揚げも種々の紛争が起こり、庄屋・町役人の手数を煩わせたことが一再ならずあった。その一例として元治元年(一八六四)大工町の庄屋年寄から、町方役人に提出されたつぎの嘆願書がある。
「乍恐以書附御嘆願奉申上候去ル五日凧揚之節、諏訪小路二而、伝馬町者ト町内之者共口論仕居候場所へ利町者立入、伝馬町之者ト取合ニ相成混雑仕候処、御廻り先預り御取調ニ、猶又此上厳重之御沙汰ニ相成候而者奉恐入候ニ付、隣町役人紺屋町山下兵左衛門、本魚町横井甚兵衛右両人立入取噯呉、下方示談相整候上ハ、以来右様之不埒無之様精々可申附候間、今般之儀者格別之以御憐愍、何卒御手限リニ而御聞済ニ相成候様、御仁恵之程奉願上候、尤御内済被 仰付候上者、右之懸り合者共へ者急度町法可申付候間、前顕次第一同伏而奉願上候、右願之通り被為仰付被下置候ハハ、難有仕合ニ奉存候以上
元治元甲子年五月 大工町 年寄 儀左衛門
同 和 助
同 勘 兵 衛
町方御役人中様 庄屋 平 八」
時に争いもあったが、凧揚げは庶民にとって大きな楽しみであった。