浜松市史第三巻は、第二巻につづいて、明治維新から太平洋戦争終結までの約八十年間にわたる浜松近代史の概説をめざしたものである。この時期に、浜松は工業の躍進・人口の増加・市域の拡大などに顕著にみられるように、近代都市としてめざましい成長をとげたのであるが、その発展段階をつぎの三つの時期にわけることができる。第一期は明治前半期(一八六八年ころ-一八八八年ころ)で、浜松が城下町・宿場町から脱皮して近代都市の基盤をきずいた時期とみられる。第二期は明治後半期(一八八九年ころ-一九一〇年ころ)で、町制施行のもとに近代的な地方商工小都市として発展した時期である。第三期は大正・昭和前期(一九一一年ころ-一九四五年ころ)で、市制の施行を契機として、浜松が政治・産業経済・交通・社会施設・教育・文化の各領域で急速な近代化をおしすすめた時期である。そしてこの到達点が現代浜松の起点ともなったのである。
ところで、地方政治の中心地(県庁所在地)でない浜松がこのように都市として急速に発展し近代化をもたらした要因は何であったか。簡単に答えられることではないが、その指標と考えられるものを次に列挙して参考に資することにしたい。(1)地理的自然的条件の活用―東西大都市の中間に位置して東海道線に沿っていたということは単に工業立地上の好条件たるに止まるものではなかった。江戸時代には主として周辺農村の入会地であった三方原台地は農業・工業・軍事などさまざまの方面で浜松の近代化と深いかかわりあいを持つに至った。天竜川の歴史的な役割も極めて大きく、浜松の発展は天竜川のおかげといわれるのも過言ではない。この川に生涯をかけた金原明善のことは有名である。現代の浜松市域はおよそ東は天竜川から西は浜名湖にわたっているが、明治初年には堀留運河が建設されてその舟運は浜名湖につながり、浜名橋架設・東海道線開通の頃まで浜松地方の物資や旅客の輸送に大きな貢献をした。これは海に近いが港のない浜松にとって浜名湖利用の第一歩を示すものであった。(2)地場産業とくに紡織工業の発達―浜松の近代化は工業都市化に代表されるが、諸工業の中で遠州織物は中心的な位置をしめていた。(3)浜松の内外両面からの考察―これは浜松が静岡県・日本・世界の近代化とどのように関係し対応したかという視点である。例えば、地租改正事業の早期完了・浜松県廃止と再置運動・浜松医学校・楽器産業の起こり・鉄道院浜松工場や旧制高校の誘致運動・市長の選任・地元の資本蓄積や労働力・海外市場の開拓・日楽争議の背景・軍事都市化などが注目される。(4)住民の資質―浜松人の気質として、積極・進取・活気・新奇・実利というような点が指摘されることがある。住民性は固定したものではないが、このような傾向は前記(1)(2)(3)の諸事項のなかからもよみとることができる。