いちはやく新政府領となったのは天領であった。中泉代官大竹庫三郎が誓書を出して勤王を表明し、「遠江・三河・信濃支配地是迄之通被仰渡」(『静岡市史編纂資料第四巻』)たのが慶応四年三月(『島田市史資料第五巻』によると、三月十三日遠江・駿河の県令として田上寛蔵が任命されている)であったが、四月二十九日新政府が参河・遠江・駿河を支配する参河裁判所(吉田宿関屋町快真寺)を設けると(『新居町史資料編六』には閏五月(ママ)三日取立とある)浜松地方の天領はその支配下にはいった。このとき大竹庫三郎はその役人となっている。そして中泉(現磐田市)に参河裁判所出張所が置かれるのは五月であった。