つぎに旗本領である。【五井氏 服部氏】浜松地方には志都呂村(当市志都呂町)に陣屋(通称代官所)をもつ五千五百石余の松平氏(五井弘之助忠庸)、大久保村(当市大久保町)に陣屋をもつ三千五十石の服部氏(中)、堀江村(当市舘山寺町)に陣屋をもつ大沢氏(基寿)、安間村など遠州十三か村を知行する七千石の松平氏(筑後守)などがあった。
維新にあたり勤王誓書を提出し所領の安堵を願うのはいずれの旗本も同じであったが、これを松平氏についていえば、慶応四年二月筑後守正孝が隠居し正当が継ぐと、四月には家臣金原明善を上京させて存続をはかる動きをみせたが、七月には知行所上納を願い出て、九月には徳川家達(亀之助)に従うため駿河へおもむいている。
【大沢氏】しかし大沢氏の場合は大いに異なる。基寿(右京太夫)は慶応四年二月に旧幕府の高家としてはもっとも早く朝臣となり、ついで八月二十二日付の請願書で、領内の本高は四千八百十四石余であるが、今後の開墾地等を加えると高は一万六石となるから藩屏(はんぺい)に加えられたい、と願い出た。【堀江藩】この請願は受理され同年九月十八日付で認可され、その陣屋所在地の名をとって新しく堀江藩(後述)として生まれ変わることになった。