大名領 浜松藩 井上氏勤王誓約

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【井上氏】浜松地方の大名領は井上氏の浜松藩である。浜松藩主井上河内守正直(まさなお)が老中を辞したのは慶応三年六月であったが、浜松城は東海道要衝の地につき警衛を厳重にすべき旨を申し渡され、浜松へ着いたのは翌四年の二月二十六日であった。その間、頻繁な勤王の督促もだしがたく「主人帰城迄之間、不取敢臣等連款」して「赤心報国」を誓う証書を提出して一時を糊塗していた浜松藩が「国力相応之人数」を出兵せよとの厳命をうけたのは二月七日で、家老伏谷又左衛門をして隊士四百十七人を率い先鋒総督に随従させ、また気賀関所の警衛取締を命ぜられたのが二月二十五日。正直の浜松着城はその翌日であった。憩う間もなく三月二日には上京せよと朝命が下り、同月十八日参内して天機を伺い奉った。正直が勤王の外に二心のない旨の誓約書を提出したのは、この時であった。そして出兵警備のため在所手薄であるばかりでなく領内の取り締まりも不安ということで四月二十八日に帰浜した(『鶴舞藩之沿革』)。そこへ五月になると、天竜川の出水がおこり、正直は領内の視察救恤に奔走し多忙であった。「御上様御救、矢張四斗桶に御飯を壱盃、梅干壱包、塩壱包相添」、「椽先迄御舟付キ頂戴いたし、尚御舟は北嶋村差て御下り」なされたが見舞の品は「小前へ不残沙汰いたし配分頂戴」「難有事と喜入」ったとある(『天王新田村中村家記録』)。しかも、この雨は八月まで数回にわたって降り続いたので、御東幸を真近にひかえた新政府は会計官を派遣し、浜松藩と協議して天竜川の堤防の修理を遂行することにした。

浜松藩印