井上氏の移封

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 その浜松藩が「領分遠江国高五万七十六石余上知被仰付」れたのは九月四日(九月八日明治と改元)で、「代知之儀ハ追テ御沙汰」ということであったが、つづいて二十一日に上総国(千葉県)の市原郡・埴生郡・長柄郡において六万二千百石余(『鎮将府日誌第十八』)が代知として与えられる旨の沙汰があった。この所替はいうまでもなく徳川亀之助(家達)を駿河国府中城主として七十万石に封じたための措置で、遠州の各藩もみな移封の命令を受けたのであった。浜松藩ではさっそく所替再考の議を申し出た。その趣旨は、浜松藩としては旧主家の徳川家に義理立ての意志は毛頭持っていないのに「亀之助と境を接し且徳川譜代の家抔と唱候向も」あるとの「御嫌疑」による所替かと「家来共挙て痛心切歯」している次第である。「何卒是迄之通被仰付」たい、というのであったが、これは却下された。また浜松藩もこれ以上の運動をすることは中止した。この際、領内二百八か村の総代が所替に反対して「永城ノ御処置」を太政官宛に嘆願している。
 所替は直ちに行なわれる筈であったが、御東幸のため延期となった(明治元年九月十二日『太政官日誌第八十九』)。当時天竜川が欠壊し、浜松藩にその普請役が命ぜられたので、天皇が十月二日に浜松駅御泊輦のさい、正直は行在所(あんざいしょ)において、天竜川普請竣工に力を尽した功を賞する旨の勅を賜わっている。