藩領引渡

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 延期になっていた所替は十二月に行なわれた。このとき「先方は居城もなき地故、難儀も多からん」と現米千二百石と金一万八千両を向う三か年間下賜する旨の通達があり、十二月十五日藩領は大竹庫三郎に引渡され、ついで駿府藩が受け取った。また金指近藤氏の知行所は同月徳川家へ引渡しがすんだ。この月天王新田村では村の差出帳などを(『中村家文書』)、服部中領の伊左地村では鴨江寺塔頭正法院におかれた仮役所(代官堀口勘兵衛・山口半兵衛)に村絵図などを提出している(『伊左地文書』)。
 
【明治二年】明けて明治二年、輸送を要する荷物は掛塚港から船便で、正直は父正春以来二十四年間在城の浜松に別れを告げて正月二十七日出発、二月十一日新領地に着いた。与えられたのは前記三郡のほか山辺郡が加わり六万二千百石余、上総国埴生郡長南(ちょうなん)矢貫村に落ちついたが、まもなく同国市原郡内田郷石川村地内の桐木原(きりきはら)へ仮陣屋を作った。たいへん荒蕪な地であったという(士族二一九戸、一一八八人、卒族五五二戸、二一三六人という)。【鶴舞藩】鶴舞と名付けられ、その名をとって鶴舞藩と呼ばれた(『鶴舞藩記録』)。
 歴代の浜松藩主は転封が頻繁で、領地領民との結びつきが弱かったが、井上氏の場合は前後二回を通算すると八十余年在城し、最後の領主という関係もあって、比較的にその治績も知られている(『浜松市史二』参照)。なお浜松城は明治二年三月大竹庫三郎へ引渡した。

晩年の井上正直