堀江県 浜松県へ併合

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 【鹿島原開拓】ここで堀江藩について述べると、明治二年六月の版籍奉還のさいには藩主基寿は藩知事に任命され、堀江村に置かれた藩庁には民政・庶務・租税などの係があり、同三年四月には生産所を新設、八月には新札(藩札)の引替をしたり、翌四年には鹿島原二十三町一反歩の開拓や村櫛・和田・内山村地先の浜名湖の干拓を計画したり、藩政の振興に努力するところがあった。しかしこのころになると、さきに知行高五千五百余名を「追々開墾地等取合」(請願書)一万六石として上申したことは偽りと認められ、責任者の安間又左衛門は同年三月には藩を脱走するにいたるという騒ぎとなった(堀江邑松助『年代宝蔵記』には脱走は明治二年三月とある)。こうしたうちに七月には廃藩置県の実施によって堀江県と改称され県知事となった基寿も、この年八月に堀江県庁に「当地発足帰京」の申入れをして上京した。十一月十五日堀江県は廃され、遠江国一円を管理する浜松県の設置によって浜松県へ併合となったのであった。