知行高を一万石余として上申したことは、訴訟沙汰にまで発展し、翌五年正月には旧藩主大沢基寿は華族より士族に下げられて禁錮一年、元大参事金沢利勝ら五名の旧重臣は禁錮一年、その他の者は民籍編入という判決が下された(『明治初期静岡県史料第五巻』、『庄内の歴史』庄内郷土史研究会)。判決は思ったより軽かったが、これは堀江藩が小藩で比較的実害が少なかったこと、政府は廃藩置県後の後始末に当時忙殺されていたこと、基寿が将軍の名代として朝幕の間を奔走したこと等が斟酌されたからであった。この事件は万石事件とも呼ばれ、旧家臣七十余名のうちのなかには、一時金も与えられず、家禄は没収されて生活に困窮する者も現われるにいたった(旧邸は競売され、新所小学校の校舎となった)。
なお、安間又左衛門は浜名湖の干拓計画を急ぐあまり領民に苛酷な労働を課し、怨嗟の的となったと伝えられている(村越一哲『五千石の湖』)。また基寿は明治中頃にいたって生活窮乏し、旧領のこの地方の人々に援助を求めにきている(堀江邑松助『年代宝蔵記』)。
大沢基寿