浜松県の復活運動

17 ~ 18 / 729ページ
 家康の浜松居城以来江戸時代には藩庁の所在地として二百六十余年の間藩政の中心地であり、明治になっても県庁の所在地であった浜松は、明治九年の浜松県廃止によって、県都の位置を失うことになった。このために浜松住民の受けた心の傷は深かった。
 
浜松県大要(明治6年)
戸数88,743戸
人口414,928人
 士族22,090人
 僧侶3,796人
 平民238,077人
宿数浜松以下9か宿
村数1,142村

(『浜松県一覧表』)
 
 県の分合廃置は必ずしも実状に添わない点があり、明治十三年ごろから廃止された県の復活論が行なわれるようになった。こうした風潮の中に生じたのが、かねがね浜松県廃止に不平の念を抱いていた浜松県の復活運動であった。【十六年】主唱者は竹村太郎(県会議員、敷知郡入野村)・竹山謙三(敷知長上浜名郡長、長上郡下堀村)・岡田良一郎(佐野城東郡長)・小野田松一郎(豊田磐田山名郡長)などで、明治十六年十一月十三日竹村太郎ほか四十五名連署による「旧浜松県再建之議」の建白となった。