十一月になると遠江国に一大区毎に大区扱所が設けられることとなり(明治九年十一月二十日、甲第八十七号布達)、扱所位置および区長適任の者を各大区扱所について二名宛選び、各小区毎に投票、また同年十二月十九日には各小区に副区長を置くことになり、小区扱所および副区長適任の者一名を選び、小区毎に浜松支庁あて差出すよう達せられた。【十年一月 大区扱所】十年一月十一日浜松駅に第十二大区扱所が置かれ気賀半十郎・小野田松一郎が第十二大区々長兼学区医務取締となった(明治十年一月十七日、浜松支庁達)。【小区扱所 戸長】なお小区詰副区長(二名)に矢部清之・近藤政敏が任命され(『静岡県職員録』)、戸長四名が置かれた。このときの浜松宿(一小区)の戸長は当時の文書によると林勝昌・内田政治・伊藤脩忠の名がみえる。
四月二十七日には従来の各区役所・扱所等の名称が大区・小区事務所と改められた(甲第三十四号布達)。又八月三日には正副区戸長について以後転免補欠の節は公選の上申出、場合によっては官選を以て申し付けることになった(乙第五十六号)。