しかし、当時浜松宿の行政は郡区改正草創の際であって宿行政統一の実を挙げることが出来ない状態となり、大区小区制時代と同一の不便を唱えて「当宿ノ儀ハ古来各町村独立致居リ各々名主或ハ庄屋年寄等ヲ置キ、町村限リ事務取扱(中略)、百般ノ事総テ他ノ町村ト連合スルコト無之」(分離願)と、三十二か町村に分立を主張し、明治十三年八月林弥十郎・谷野治平・神谷常三郎・佐々木養・樋口弥一郎の五名が惣代となって分離願を静岡県令大迫貞清宛に提出した。その要旨は、
【大庄屋制】「①明治二年に浜松市街取締大庄屋を置いたので(前述)、各町に名主又は庄屋年寄があるのに拘らず諸願書などには大庄屋の奥書が必要になって手数が煩雑になった。そこへ、
【小区制】②明治四年浜松県の新設によって、当宿を合して一の小区となし、正副仮戸長三名を置かれたが(前述)、これは戸籍編成取扱のために過ぎない、その他の事務は依然として庄屋年寄などの取扱いであった。
【組合戸長制】③明治六年四月には旧役員は全廃となり、さらに十余名の戸長をおいて一宿の事務のすべてを取扱うことに定まった(前述)。そのため一戸長の分担する戸数人口は三、四倍の多きに上り、自然に事務の渋滞をきたすので、やむを得ず各町村へ町用係と称する係(諸税取立等)をおいているが、これは二重の手数であるし、その給料の支弁方法にも危疑がある。不便であった大区小区制が廃止になったとき『人民愁眉ヲ開キ各町村ニ復旧可相成ト一同喜悦シ』ていたのに、今度このような宿政の統合が行なわれたのでは、旧小区事務所に代わる役場を設けたいというだけのことで実際には何の変わりもなく『人民失望ノ至リニ不堪』、『如何共不便宜ニ候間』、宿内各町村を分離し、町ごとに町政をとり行なうとともに、浜松の名称を存して『浜松何町ト一般ニ称シ度』、ぜひ御採用いただきたい。」
というものであった。