【浜松監嶽 五年】明治五年浜松県時代に浜松宿高町に囚獄が置かれたが、静岡県時代に入ると九年八月に浜松監獄分場、十一年三月に浜松監獄支署と改称された。その後も改称があったが、三十六年四月静岡監獄浜松分監と改められた。長い間「高町の監獄」として市民に知られていたが、大正七年鴨江長者平へ移り、大正十二年に静岡刑務所浜松支所と改称した(一般に浜松刑務所といった)。
高町のころの監房は二間に十間くらいの細長い建物が二棟、廊下には看守(かんしゅ)が往復して監視していた。浜松分監は看守長以下四十名くらい、在監者は常に約二千三百人だったという。【小政】清水の次郎長の子分として知られた小政こと浜松宿新町の政五郎(吉川冬吉)が「産業ナクシテ脇差(わきざし)帯シ歩行、其上博徒共ヲ招結シ」た廉で明治六年二月准流五年の刑で入獄、七年五月三十四歳で死亡(当市板屋町大聖寺に墓がある)している(『明治初期静岡県史料第三巻』)。また十四年十月二十日の夜囚人ら二百余名結党して放火し監房を破壊し脱走を試みたが、ようやくこれを鎮圧した事件がおきている。