【玄忠寺】右の議員たちは明治九年八月九日に仮議場の玄忠寺に集合し、議長に岡田良一郎(第三大区)、副議長に青山宙平(第二大区)、幹事に丸尾文六(第三大区)・須永信夫(第二大区)・大塚義一郎(第三大区)・河村八郎治(第三大区)をそれぞれ選挙した。正副議長の両名は改租完了時の立役者でその責任上からも選出は当然と思われる。浜松を中心とする第一大区から役員が選出されていないことが注目される。【普済寺門会式】ついで八月十四日には普済寺(ふさいじ)で県令らの臨席のもとに議会の開会式が盛大に行なわれ傍聴人も百九十名に及んだという。承認された「浜松県公撰民会規則」第一条によると、県民会の直接の目的は田方反米の改正にそなえて田方収穫見様(みだめし)方法を審議することであるが、これに限ることなく、道路・堤防・橋梁・灌漑の便をはかり、教育をさかんにし、工芸をおこすなど広く諸般の得失を審議して民害を除き国家の公益をはかることを目ざす、となっていた。【浜松県廃止】こうして県民会が成立し活動を開始した直後、八月二十一日浜松県は廃止され静岡県に合併されるという事態が起った。【遠江国民会】しかし、正副議長の努力によって静岡県令(大迫貞清)は民会の存続を承認したので、以後その名称を遠江国民会・遠州(江)民会などと改め、明治十一年七月の三新法による県会発足の頃まで活動を続けた。