明治十三年五月に政府は、地価は明治十八年迄据置とする、但し人民の申告にもとづき地方官からの具申があれば特別修正をすることがある旨を布告した。【地価停止】これをうけて静岡県では、遠江国の郡長(六名)を集めて、石黒務書記官(滋賀県士族出身、旧浜松県参事として改租にあたった)がもしこの際地価修正にとりかかるとすればその方法如何と諮問した。この時、周智郡長足立孫六が十八年の改訂期まで待ってその時に「十分ノ改正」をなすにしかずとして修正に反対した。佐野城東郡長岡田良一郎は、自分の希望は「収穫ニ在テ米価ニ非ズ」として反米の修正(低減)を強く主張したが、その要旨は左の通りであった。
【引戻提案】遠江国の田方の平均反米は駿河・参河両国に比べると一石三斗内外と思う。改租終了の時一石四斗余と決定したことは「過当」である。その際に石代を五円五銭に下げたことも「適当」ではない。要するに交換が度を超えていたのである。よって、地価は据置として、反米一石四斗余を一石三斗余に引戻し(下げ)、この減額分一斗を米価に交換して加算すると石代は五円四十三銭余となるわけで、これが「適当」な措置である。
この交換米引戻の提案は遠州の大部分(八宿七町七二二村)の人民に支持され(七一か村が反対し別に地価修正運動を行なった)明治十四年には各地区から県令宛に「田方収穫交換米御引戻願」が出された。【引戻実現】これが政府へ具申されて承認されたので、出願地域の遠江国の田方平均反米は一石二斗九升五合七勺三才に修正せられ差引約一斗の引戻しが実現した(明治十五年)。反米高のみからみると、岡田のいうように隣接諸国に比し「相当ノ権衡」を得たことになる。【地価据置】しかし、地価据置としたために石代相場が引き上げられることになり、ここに人民の不満は残ったのである。この点について、岡田は十八年の米価改訂に期待し、米価引下げが実現すれは「遠州人民ノ疾苦ヲ全治」することになるとしていたのである。