全国の改租結果からみると、林野の地租額は全地租額の一・五%程度にすぎず(五一頁表)、国家財政上からは殆ど意味を持たなかった。政府は林野の改租をあと廻わしにした。しかし、林野改租の実質的意義は所有権の区分確定にあったということを見落してはならない。このことは、林野改租が軌道にのり始めた明治九年に政府が定めた「山林原野等官民有区別処分派出官員心得書」(一月)、「山林原野調査法細目」(三月)などに従って進められた。遠江国の林野改租終了は極めて早く前にふれたように明治十年三月で、その結果は前掲表の通りであった。【三方原】浜松地方の林野改租を代表するのは三方原である。三方原開墾地には沽券(こけん)(地券)が交付されたが(後述)、三方原入会地(いりあいち)は明治八年改租の際に民有の証拠不明との理由で官有地第三種に繰り入れられたが、その後一部は旧によって入会村(『浜松市史二』参照)に拝借を許可され、一部は官林に編入されたのであった。【御料地】ところが二十二年九月、何れも御料地に編入され帝室財産となり、ついで拝借も停められたので、入会村は肥料の供給の途が絶え、農事にさしつかえることになったので、一万余人連署して、旧のごとく秣(まぐさ)場に貸与されるよう請願したが、採用はされなかった(『浜名郡誌』)。明治三十一年頃と推定される和地村の静岡県知事宛の請願書(浜松市和地『中村家文書』)の要旨を次に紹介して参考に資したい。