運河開掘の諸計画

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 三方原開拓とともに士族授産につながる事業に堀留運河の開掘があった。【文久三年案】浜松城下より浜名湖を経て遠州灘に舟を通じ、商品流通の拡大をはかる計画はすでに存したが、堀留運河の開掘もこれに繋がるもので、文久三年(一八六三)「近年街道筋御通行別而多く人馬御継立出来兼」ていた浜松宿問屋および同宿助郷村々が、問屋源左衛門・忠兵衛をはじめ助郷惣代下堀村(現在当市天王町)庄屋平左衛門などを代表として「通船」を願い出たのもその一つであった。これは「入野村地付新堀有之を相用、浜松七軒町浦迄堀付、上下馬荷之分船積ニいたし運送仕候ハゝ」どのようにか便利であろう、というもので「入野村地付新堀」とは、嘉永六年(一八五三)に明神野村(現在当市神田町)地付の次郎助池から流れ出て入野川へ合流する明神野川(沼田川ともいう)を改修した悪水吐用水路のことである(東海道の八丁縄手にはこの川にかけた鎧橋(よろいばし)がある)。しかし、これは舞坂宿などにも関係のあることなので、舞坂宿とは元治元年(一八六四)以降慶応二年(一八六六)までに数回の議定書をとりかわすまでに進んだが(『舞阪町史』史料編六)、この計画は幕末のあわただしさのうちに、そのまま立ち消えとなった。【安政二年案 前島密案】かつて安政二年(一八五五)岡村黙之助義理(よしさと)が入野川の水を浜松城下元目(げんもく)の御堀まで引き通船の便を計ろうとしたのも、また中泉奉行前島密(まえじまひそか)の遠州灘沿岸に沿って浜名湖へ出てさらに三河湾に至る運河を開通するといういわゆる新航路構想もまたこれと軌を一にするものであった(前島密『東海道舟路の概略』)。