【浜松奉行井上八郎】いずれにせよ当時、浜松地方へ移住の旧幕臣たちの生活対策に苦慮していた駿府藩は、その解決の一方策としてこれを採用するに決定し、出先機関の浜松奉行井上八郎(延陵)に、その衝(しょう)にあたらしめることになった。しかし、二年正月に着任したばかりの井上に土地の事情が分る筈もなく、気賀林がその相談相手になった。このとき林は「七軒町堀割之儀ハ、兼而下堀村庄屋平左衛門始是迄目論見いたし居候ニ付、右之者江被仰付候様仕度」(『岩井宜徳伝自書』)と、前記の助郷村惣代の一人の竹山平左衛門を推薦している。
井上延陵
【開掘会議】開掘会議は二年の冬から翌三年へかけて、移住旧幕臣すなわち静岡藩士(明治二年六月駿府藩を静岡藩と改称)授産のために設けられた勧工所(後述)において行なわれた。【浜松商人】会するもの浜松勤番組頭井上八郎・同副田村弘蔵をはじめ気賀林などで(浜松奉行所は明治二年九月廃止)、中村惣七(連尺町、尺度製作渡世、忠七の父)・乗松甚十郎(鍛冶町、木綿・足袋渡世)・田畑庄吉(成子坂町、酒造渡世)・中村藤吉(田町、小間物渡世)などの浜松勧工所御用の商人も参加している。