堀留運河の計画

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【気賀林献策】明治初年の士族授産につながる堀留運河の開掘も、このような運河開鑿(かいさく)ブームにのったもので、気賀林(りん)によればこのときの開掘計画の実現は、己れが明治二年二月浜松宿川口左又郎方で駿河商法掛の矢村小四郎・青木錠一郎に対し、浜松と浜名湖間の水路開鑿について述べ「入野村より浜松宿之西口七軒町迄凡貳三十丁之間、川を掘、小船を通じ候得ハ、人力を助け運送之費を減し、目前大益を得る事独浜松のみならず、遠江半国之融通上下之大幸無此上奉存候」と意見を述べたのが端緒であったと述べている(岩井宜徳『三方原開拓記録』)。
 
【浜松奉行井上八郎】いずれにせよ当時、浜松地方へ移住の旧幕臣たちの生活対策に苦慮していた駿府藩は、その解決の一方策としてこれを採用するに決定し、出先機関の浜松奉行井上八郎(延陵)に、その衝(しょう)にあたらしめることになった。しかし、二年正月に着任したばかりの井上に土地の事情が分る筈もなく、気賀林がその相談相手になった。このとき林は「七軒町堀割之儀ハ、兼而下堀村庄屋平左衛門始是迄目論見いたし居候ニ付、右之者江被仰付候様仕度」(『岩井宜徳伝自書』)と、前記の助郷村惣代の一人の竹山平左衛門を推薦している。

井上延陵

 【開掘会議】開掘会議は二年の冬から翌三年へかけて、移住旧幕臣すなわち静岡藩士(明治二年六月駿府藩を静岡藩と改称)授産のために設けられた勧工所(後述)において行なわれた。【浜松商人】会するもの浜松勤番組頭井上八郎・同副田村弘蔵をはじめ気賀林などで(浜松奉行所は明治二年九月廃止)、中村惣七(連尺町、尺度製作渡世、忠七の父)・乗松甚十郎(鍛冶町、木綿・足袋渡世)・田畑庄吉(成子坂町、酒造渡世)・中村藤吉(田町、小間物渡世)などの浜松勧工所御用の商人も参加している。