その間舞坂港関係者の反対があったが(『舞阪町史』史料編六)、議は進み、明治四年のはじめ「遠州浜松宿より入野村地内悪水堀迄新規通船路堀割之儀に付」という伺書を浜松郡方役所へ提出する運びとなった。そのため悪水堀までの八百五十四間に「新規通船堀割申度」その費用は「最寄農商身元之者願に寄一時繰替出金為致」その土地は借地として「御年貢並作徳米」を支弁し、その償却方法は「内職品外浜松出入之諸荷物陸路附送リ入用より、新航路運送入用差引間金之三分一荷主共より請取年々戻入」れるという趣旨であった。ここでいう内職品とは、勤番組員(旧幕臣)が勧工所で製作する品をさし、これをこの「新規通船堀割」を利用して出貨して利潤をあげれば、自から勤番組員の自活の道にも通じ、士族授産にもつながるというのである。そして伺書の届出人は井上八郎・田村弘蔵の両名であった(田村は明治九年浜名湖西岸吉美村五田川河口で運河開鑿を計画している)。
明治24年(1891)堀留運河(上新町時代)