【四年四月】工事は明治四年の秋の稲刈後に着手の予定であったが、時期を繰り上げ(その理由は明らかでないが廃藩置県の直前であった)、予定の借地は中止とし、井上八郎・田村弘蔵両名の名儀をもって新割関係の村々(下表)より二町九反七畝十九歩(瓜内村を除く)を、金千四十二両余をもって至急買収し、その完了をまって四月十八日より開始。浜松勤番組が労力を提供したが、その不足は浜松郡方役所に申請し、浜松町在より掘割人夫の出動を受けることにした。このとき浜松町方からは二十一か町、延六百九十人、三日間、在方からは九十一か村、延千三百六十九人、八日間出動、工事を助成した。【見舞手伝】これを見舞手伝と称し、一日一人五合支給されたのみであった。
[図]