明治五年(一八七二)、東海道各宿の伝馬所が廃止になって、不便をきたしていたころであったから、この堀留の通船は大いに世に喜ばれた。ことに七年四月、浜松宿火災(小野組の火事)のさいは、普請入用品に限って特別に輸送の便をはかって大いに感謝された。また新所村日の岡発着所(新所港)にも人家が立ちならび、明治六年十二月には陸運元会社の新所村分社が、七年七月には郵便取扱所が安七郎の尽力によって誘致され、たちまちに浜名湖西岸の船着場として栄えるようになった。同年四月十六日には乗客三百三十人、八年一月浜松・新所間就航二十艘あったという。新所は浜名湖水上交通の要地として十年四月には白須賀の警察分署の移転をみて、荷物の量一日一万貫を数えたといわれる。しかし、当時浜松・新所間はおよそ四、五時間を要し、所要時間の短縮と輸送力の強化はなんとしても大きな課題であった。浜松伝馬町林弥十郎が、入野村本所河岸(ほんじょがし)で舟の両側にとりつけた水かき車を手の力で廻す「人車」を考案し、失敗に終ったのはこのときであったという。このため安七郎が小型蒸汽船の就航を開始したのは明治九年一月であった。この小型蒸汽船は通運丸といい船長十二メートル、幅二メートル、三馬力半、積載量二トン、舷(げん)側に設けた水車を薪(まき)の燃料によって回転させ走航させるもので、これによって時間も短縮されるようになった。安七郎は十五年に通運丸と同型の蒸汽船(三四人ないし四四人乗)を就航させ、同年九月に前島密の斡旋による川島富八(山名郡於保村)の指導でさらに大型(六〇人乗)を就航させた。佐鳴湖岸の入野が終点で、一日に三回発航、一名十六銭であった(『湖西近代百年史年表』)。
堀留荷物取扱所の営業成績は毎年三千両以上の総益をみるにいたったが、その反面に経営の実権が井上個人の手に移っていくのもやむを得ないことであった。下表は明治六年から十三年までの堀留荷物取扱所が発表した収支表である。
(表)明治6~13年 収支表
年次 | 総益 | 経費 | 仕埋 |
| 円 | 円 | 円 |
明治6 | 3,128 | 2,892 | 236 |
7 | 3,890 | 3,858 | 32 |
8 | 3,519 | 3,554 | -34 |
9 | 3,387 | 3,787 | -400 |
10 | 3,222 | 3,588 | -365 |
11 | 2,639 | 3,867 | -1,227 |
12 | 3,443 | 3,299 | 144 |
13 | 4,884 | 3,750 | 1,134 |