【十四年】勝訴はしたが井上は明治十三年になると東京へ去ってしまった(当時田村弘蔵は死去)。そのとき会社組織に切替え、翌十四年六月合本会社として発足したのが堀留会社である。堀留運河の名称もこの会社の名をとったものである。業体は回漕業、場所浜松宿上新町(菅原一四番地)、株金一万五千円、株数六百株、株主八名であった。浚渫費(土砂が崩れしばしば水深が浅くなった)もかかるし、設立後まもなく財界の不況のため収入が減じ、二十三年十月には浜松町役場へ船賃の増加を申請したが許可にならなかった(『岡部文書』)。二十五年、浜松堀留合資会社と改称し、運送倉庫業をいとなみ経営も追々川島俊吉の手に移っていった(『川島文書』)。