しかし、このような浜松・新所間の通船事業も浜名社によって舞坂・新居間に架橋の議がおこり、明治十四年十二月浜名橋と名づけられ竣工するとようやく堀留船溜も新所港も昔日の面影を失うようになる。ことに後背地を持たない新所の打撃はいちじるしく、蒸汽船による郵便逓送(明治十八年)も廃止されるにいたって全く衰微するに至った。浜松は新所ほどではなかったが、やはりその影響は免かれがたく、十五年には堀留運河を延長して天竜川と結ぶ計画などがあったが実現をみず、二十二年東海道線開通以後は僅かに余喘を保つにすぎなかった。その起死再生策として三十六年浜松商業会議所は浜松停車場より堀留運河に達する開鑿(かいさく)方を浜松町長に建議したこともあったが、これもみのらなかった。【船溜の位置変更】三十九年鉄道工場の設置が定まると(後述、第三章第一節第二項)、船溜(上新町改め菅原町)およびその水路の一部は浜松駅よりの鉄道引込線敷設のために埋立てられ、新しい船溜が東伊場へ設けられることになった。しかし、それも現在では埋立てられ面影を残していない(昭和四十八年浜松市が買収)。