気賀林の建白

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 駿府藩が藩の殖産興業政策として渋沢栄一(篤太郎)を起用して商法会所を静岡紺屋町に開業したのは明治二年正月であったが、遠州地方に商法会所設立のため商法掛矢村小四郎・青木錠一郎の両名を浜松へ派遣したのは同年二月であった。このとき気賀林はその旅宿川口左又郎宅に呼出され「商法御尋」につき意見を尋ねられ、つぎのような建白書を提出した。
 気賀林(文化七年気賀村竹田家に生れ、気賀家に養子し同家を復興。岩井林右衛門、通称半十郎、諱は宜徳、淡庵と号し明治四年気賀林と改名、明治十六年四月没、七十四歳)は引佐郡気賀村に住み、領主旗本の近藤氏の御用達をつとめ、その財政立て直しにも功があった。また自家の復興にも「於是慨然奮志借資於親戚専買土産藺蓆輸諸江都」(明治二十四年「三富翁之碑」)とあるように浜名湖北の琉球表によって産をなして成功、当時三百石積以上の廻船十艘余を所持していた新興の商人であり、事業家であった。

気賀林