しかし、この開発について反対を唱えるものもあったらしく、五月には「村々之内愚民共、開発を妨候様ニ」妄説を「流布いたす」者もあるので、「開発之御目論見早々御触書被下置候様」と滝口・長山宛に再願している。しかし、なかなか許可は下らなかった。【五百戸】というのは、藩は「明治元戊年静岡立藩以来」の方針として士族の処遇について「其士族ヲ管内各所ノ郊原ニ配置シテ拓地墾田ニ従事シ、自勉自食ノ道ヲ得セシメ」るため(『浜松県記録』)、三方原も牧ノ原・上ノ原と同じように「拓地墾田」の有力な候補地として講究中であったため、民間の一個人気賀のみの開拓に委ねることができなかったという事情があったからである。
【平民移住】そのため三方原開拓の決定をみたのは六月にはいってからで、その内容は「三方原生育方五百軒も御取立」すなわち士族五百戸を三方原に移住させるとともに、「農工商三民」の取立、つまり平民の移住については気賀林に委託するというものであった。