【二年】藩論決定により、府中を代表して浜松奉行井上八郎、同添奉行田村弘蔵および長山晋之助の三名が六月二十二日三方原見分、二十三日には三方原御用掛として静岡藩の生育方取締飯高七之丞、同介赤林立之助、調役地方掛長山晋之助の三名が気賀林と打合わせ、翌二十四日には前記の三方原御用掛が三方原開拓掛に任ぜられることになった。早速開拓に着手することとなり、開拓掛は気賀林の宅に出張し、気賀村大工(粂蔵・万吉・国松)黒鍬(小平・亀次・九蔵)を呼んで見積書を提出させ、二十六日には土地測量の杭打ちが始まった。そして追分をもって初杭としてそれから北へ一丁目ごとに、三十六丁目までの杭打をした。二十七日には三方原開拓掛岩井林右衛門(気賀林)の名をもって、刑部(おさかべ)・祝田(ほうだ)・瀬戸(せと)・都田(みやこだ)・石岡(いしおか)・金指(かなさし)・井伊谷(いいのや)・伊平(いだいら)の八か村(旧旗本近藤領)の庄屋に「今般三方原江御家中凡五百軒御移住」については、木材取扱・大工・左官・屋根葺・日雇挊(かせぎ)の人夫差出方を触状をもって依頼した。