そこで気賀林は二十二日井上八郎に二十五棟はすでに普請進行中でその経費も立替払いをしてあることであるし、「三方原開拓御家中様五六百竈御移住之儀」についてもこれを「美事良法と唱ル者八分、誹謗疑惑を唱ル者二分」であったが、現在では誹謗の声が満ちている、ついては一刻も猶予ができないので、すぐに再開の許可をしてもらいたい、なお名残村(当市鹿谷町)最寄に林三郎様の企画で取掛中の百五十竈の一部を三方原へ「分配」下されたい、と歎願した。折返し井上八郎からは「必々不都合ハ為致間敷候間」この上とも尽力してもらいたい、いずれ静岡より連絡あり次第「幸否可申達候」とあった。結局は再開拓と決定、十月二日中尾金平、阿部藤一郎の再見分となり、気賀林は普請方と士族移住の諸世話下掛りを再命され、四日には改めて二十五棟を千六百五十六両壱分で大工(前記気賀村三名他藤三郎と安富村徳十郎)に請負わせることに定まり、いよいよ本格的に着手の運びとなった。
三方原開拓概念図 気賀借地(14・16~19) 井上・田村借地(4~13) カッコ内の数字は丁目を示す
【町名命名】十一月には町名を、林町(追分初杭より東へ二丁、西へ四丁)・それより西へ順次に万代町(五丁目より十丁目まで)・東井田町(十一丁目より十六丁目まで)・西井田町(十七丁目より二十二丁目まで)・末広町(二十三丁目より二十八丁目まで)・岩井町(二十九丁目より三十四丁目まで)と、往還通六か町と唱えることに定めた。これは井上八郎・田村弘蔵・岩井宜徳(気賀林)の名にちなんだものである。