この間に、気賀林持の借家の建築も進められた。【平民長屋】林の割渡しを受けた追分に全部で五棟、このほか都田通一丁目には桁行十間梁間三間の四軒長屋が四棟と十三間半の四間の四軒長屋が一棟とあわせて計二十軒分。家賃が一か月三朱三百文、畑切起代金一反歩一か年二分。組合頭(入居者世話人)は弥三郎で、平六・周蔵・弥藤治・又三郎・長次郎(以上有玉下村)・幸次郎(有玉畑屋村)・清五郎(漆島村)と入居者も十二月に定まった。また気賀林の割渡しを受けた地内へ刑部(おさかべ)村大谷新田の利吉のように自己負担で建築し、水油・煉油・蠟燭等の生活用品の渡世をしながら開墾を願い出るものもあらわれた。長屋規定も「御藩士へ失礼致間敷候事」がきまる(四年六月)。気賀林自身も居宅新築の計画を立てている。
【士族屋敷】また士族方の長屋も完成し、十二月十四日には一里塚の御長屋五十軒に御家中の五十戸移住がはじまり(『岩井宜徳自伝』)、十五日も引き続き勤番組頭花井準の見分があった。こえて二十五日には浜松調所より気賀林に合計千七百十八両三分(二五棟代一六五六両一分、井戸二〇かけ代六二両二分)の下付があった。これと前後して借家人も入居した。