掛塚村大工職鈴木丑五郎伝(『嶽陽名士伝』)によれば「明治二年徳川家ノ命ニヨリ三方原長屋百五十棟新築 世話係」とある。御長屋新築に尽力したのは気賀林のみではなかったのである。いずれにしてもこうして、明治二年(一八六九)十二月には「士族」「三民」(農・工・商、つまり平民をいう)両方よりなる三方原移住が始まったのである。ちなみに丑五郎(天保十一年十月生)は明治三年東海道電信敷設のとき工部省雇英人ハルギルスに従い、神奈川駅より豊橋駅までの工事に従事している。
こうして移住は続々始まり、また十七丁目に鷹四郎(気賀林の子)屋敷、十八丁目に気賀林の借家一棟(桁行一〇間半梁間三間半、四軒住居、大工有玉村竹次郎)と半十郎屋敷、二十五丁目に同じく借家一棟(桁行一三間半梁間四間、四軒住居、大工浜松伝九郎)ができた。半十郎屋敷は間口三十間奥行二十九間、幅七尺深さ四尺の堀を正面にうがち、高さ九尺の築墻をめぐらし、長屋門(表九間奥行二間半)から成り総工費三百一両余であった。これと前後して井上・田村の「支配」地にも借家ができる。また榛原郡千頭(はいばらぐんせんず)村七左衛門他二十二名が「三方原之内都田村御林境より同村道南側」に移住のことも定まった。
【徳川家達見順】明治三年四月になると人煙立ちのぼる三方原開拓地へ「徳川従三位中将家達様」が、順見になった。同月八日浜松本陣泊、九日三ヶ日泊、十日は三方原追分で御小休、三方原・和地山移住士族たちの出迎えをうけ、その労をねぎらった。その節林は「開拓行届候ニ付」(『岩井宜徳自伝』)更紗二反をいただいた。移住の「三民」十八名(気賀林借家人弥三郎など一五名、井上・田村地内借家人三名)も「御目通」を許された。