入植の困難

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 明治三年七月には「三方原御勤番方数百軒御住居被成」れたので、祝田村の医荻原元良が医師として委嘱された。ついで「御長家百棟御取建」と決定した。このとき気賀林は、この長家を気賀往還筋に「五十棟追分西」「五十棟壱里塚西」へ建築されたい、と浜松調所へ願い出ている。これは自分の割渡しを受けた地へ隣接して建ててくれということである。【住宅問題】その理由は、借家人たちは渡世を覚悟で移住してきたものの生計が立たず転居するものも現われる次第であるから、気賀往還に人家が建て続くようにしてもらいたいというのである。しかし御長屋取立は実際には困難のことだったらしく、翌四年二月には気賀往還通の二丁目・三丁目および気賀林がさきに借地権を得ている十六丁目・十七丁目、とほかに二十丁目の五丁は返還を命ぜられている。この年平民の移住は浜松元魚町百姓家田熊吉(荒物渡世)、上大瀬村馬渕七蔵(菓子商)ほか一軒であった。明治三年の浜松最初の案内書『浜松漫録』は三方原開拓について述べ「士族数百軒商売是に准し自らに移住し月々に開肆す。故に一都会をなせり」といっているが、実際は気賀林が最初意図したような気賀道(姫街道)に沿う町作りは進行しなかったというのが実状であろう。

三方原開拓部分図(気賀林宅及び学校敷地付近)