以上は主として気賀林の開拓記録によって述べてきたのであって、林の関係した事項についてはその経過の概要を知ることができても、それ以外のことに士族の入殖状況については伝うるところがない。「土着する者八百余戸(略)、開拓之端緒ヲ開ク」(『浜松市史史料編六』)とあっても、剣を鍬に代えての開墾は都会生活に馴れた士族の耐えうるところでなかったし、しかも開墾した土地からすぐに収入を得ることはできず、わずかの扶持を頼りの生活は心細いものであったに違いない。もともと「徳川さま」への旧恩忠誠を誓っての移住であっただけに、明治四年七月に静岡藩が廃されると四散するものが急増した。