こうした状勢のうちに明治六年になると、新開の三方原も敷知(ふち)郡第一大区二十一小区長(明治六年二月二十七日任命)に士族間宮鉄次郎が小区副長に士族原良平が任ぜられるとともに、鉄次郎は六年四月学区取締人に兼任され、学校の敷地も三七九番地に五百坪と定った(前頁地図参照)。鉄次郎(鉄次郎信吉といい、間宮家に養子して鉄太郎ともいう)は、旗本八百五十石、三方原移住士族のなかでは高禄者であり、原良平とともに、その代表者格であった。原良平については伝うるところがない。まだ武士の勢力が残存していた時代で気賀林でさえも鉄次郎を「懼るゝこと甚し」(『金原明善手記』)かった、と伝えられている。