三方原茶園開墾計画 着手方法

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 かくて、その議が成って「三方原開墾見込書」を小区長間宮鉄次郎・小区副長原良平の名をもって、大区長堀口勘蔵の副書を添えて林浜松県令に提出したのは明治六年九月であった。その内容は「三方原ノ如キハ人民一鋤ヲ試ミス(中略)私共辛未(明治四年)以来此地ニ住シ受領邸中自耕転任、可否試候ニ培養ニ随ヒ菽麦甘藷芋ヲ始メ蕃盛村里ニ不異、就中茶ヲ養ヒ候ニ生育第一等トス、是地味ニ応スルコトヲ発明ス、如此ノ地ヲ以テ徒ニ棄物トス、天下無益ノ甚シキナリ」故に「良法御確定ノ上大区長へ被令、御管内巨農富商エ厚ク御諭令有之候節ハ報国有志ノ輩歓心速ニ上金可仕奉存候」という主旨であった。なおこれに添えた「三方原開拓着手方法」によると、第一条に「良地ヲ択ヒ町毎ニ阡陌(せんぱく)(あぜみち)ヲ作り(中略)毎反ニ小径ヲ造リ径ニ沿フテ小渠ヲ作リ」悪水吐きに作り、「壱坪ニ茶二株」を植えること、第二条に施肥は「浜松市中及士族ノ邸宅ノ塵芥ヲ他ヘ捨ルヲ禁シ、悉ク牛馬ニ駕シテ官園ヘ輸ス」ること「肴町ノ魚汁魚骨ヲ猥リニ捨ル」ことを禁じ「近傍ノ村里ヘ課シ代価ヲ与ヘ腐藁ヲ集メ」、第三条に労働力として馬を確保し「買フテ之ニ貸ス」こと、第四条に「収益概算」を付している(次頁表参照)。