明善と間宮鉄次郎

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 余談になるが、間宮鉄次郎と金原明善とは交友があった。その交友のはじまりは、何よりも主食の米の確保を痛感していた間宮鉄次郎が麁玉(あらたま)郡新原村の土質をみて(ここは土地が肥え今でも植木業の盛んなところである)、同郡宮口村より引水して水田を開発しようと計画し、水利にくわしい安間村の金原明善にその意見をたずねたことが動機であったという。しかしこの新原村は、明善も同行して実地を検べたところ、山も浅く水害も少くないので、その不可を陳べたが「間宮熱心動ク不能」、そこで「終ニ其言ニ任セ若干ノ資ヲ支弁シ」水田を拓くことにしたが、間宮鉄次郎は「不幸之ガタメニ言フべカラザル困難ノ地ニ陥リ、之レヲ悔謝」したという(『金原明善手記』)。
 
【馬鈴薯植付】これより先の明治四年四月に気賀林は三方原十八丁目百五十坪に馬鈴薯を植付けているが、その結果は判らない。