士族の状況 開墾許可

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 ここで士族告諭(士族の特権喪失が内容)の出た明治六年冬の三方原の士族の状況をみると「現今駐留スル者僅ニ四百戸ニ不満」、わずかの家禄によって生活を支えるのみで、これが救済は「隻時モ棄置キ難キ」状態であった。金原明善が不用になった士族の長屋を浜松県から六円三十七銭五厘で払下をうけているのもこのころであった。【六年 園長気賀林】さて三方原の開墾は浜松県が静岡藩より引きついだ最大の課題でもあったので、県令林厚徳はこの開墾願を可納し、同年十一月二十七日付をもって全員十名を開墾御用係に、さらにその中より十二月三日気賀林を園長に、間宮鉄次郎と金原明善を園副長に任じた。

園副長辞令

 明善は、当時気賀林と間宮鉄次郎との間に意志の疎通に欠くものがあったので、この任命につき「間宮ト好誼アルヲ以テ」(『金原明善手記』)明善の任命になったのだと推測している。