開墾の方法については、県が明治七年一月内務卿大久保利通宛に出した「三方原土地払下上申書」にくわしい。それによると、三方原のうち百町歩の払下げをうけ、県はその中の五十町歩を士族の分として払下げをし「士族の区長」および「富民数名」にその開拓事務を総括させる。残る五十町歩は「富民」が開拓に任ずる。その出費は、士族の分は「静岡県ヨリ引渡之利徳金ヲ貸シテ、生ズル処之産茶ヲ以テ年賦返償」とし、富民の分は「富民」の自費とする。【費用試算】その費用試算は、初年度概算二万円で、二年度から毎年六千円、十年目に合せて元金総計七万四千円となる。「七万四千円ノ利金十年ニシテ約六万円トス、産スル処ノ茶ヲ計ルニ、四年ヨリ十年ニ至ル凡六万円を得ヘシ、則其利子ヲ償フニ足ル、十年ノ後年ニ得ル処、又二万円ニ下ラス、二万円ノ茶ヲ得へキ園アレハ、其地価約十万円ニ充ツヘシ、地価十万円ナレハ、税百分ノ一ヲ収メテ千円ヲ得へシ、加之産出スル茶貿易海関ノ税亦従テ収ムヘシ、夫レ剖判以来ノ曠野、今日倐チ百町ノ茶園トナリ、十年ノ後ニ至リ坐テ年々一万円ノ産ヲ得へシ、其利タル鮮トセサル也、又男ハ耕耘糞培ニ依テ其価ヲ得、女ハ採摘撰択ニ依テ其貨ヲ得、駐留四百戸ノ士族ヲシテ其業ニ就カシムルノ策、是ヲ捨テ他に求ムルノ道アランヤ」と、いうのである。【明善反対】しかし園副長金原明善は、一挙に百町歩の茶園を開拓するという大規模な案には反対(「浜松県記録」『浜松市史史料編六』)で、「此園開墾ノ事ニ就テ明善、正園長(気賀)ト説ヲ異ニス、其要第一着手ハ徒ラニ大ヲ貧リ粗ナランヨリ費用ヲ厚クシ充分ニ培養ヲ尽シ完全ノ結果ヲ認メ、其生ルゝ所ノ利益ヲ以テ漸次ニ着手シ、而シテ傍ラ培養者ト製造者ヲシテ各熟練ヲ積マシメ以テ主任適当ノモノヲ養成セン」と、いう意見であった。【明善辞職】しかしその説は気賀林らに容れられず、七年四月気賀林が十八丁目の自園六反五畝に茶の播種を実施するに及んで(『岩井宜徳自伝』)、翌月の五月九日に明善は天竜川の出水等につき用務多端ということを理由に園副長を辞職してしまった。【士族不満】このとき、その辞職を許した県令の処置および気賀林に対し、明善を支持する間宮鉄次郎ら士族たちの不満はなはだしく、明善はその慰撫に苦しんだという(『金原明善手記』)。そんなこともあって、経営の実体は士族から「三民」側ことに気賀林一族に移っていったというのが実情であった。
| 支出 | 利金 | 元利 | 芽代入 | 残金 |
| 円 銭 | 円 銭 | 円 銭 | 円 銭 | 円 銭 |
初年度 | 188 23 | 14 11 7 | 202 34 7 | | |
2年目 | 267 07 7 | 40 06 2 | 307 13 9 | | |
3年目 | 371 86 9 | 55 78 | 427 59 9(ママ) | |
4年目 | 492 32 9 | 73 84 9 | 566 17 8 | 24 00 | 542 17 8 |
5年目 | 606 90 8 | 91 03 6 | 697 94 4 | 48 00 | 649 94 4 |
6年目 | 714 67 4 | 107 20 1 | 821 87 5 | 96 00 | 725 87 5 |
7年目 | 790 60 5 | 118 59 1 | 909 19 6 | 192 00 | 717 19 6 |
8年目 | 781 92 6 | 117 28 9 | 899 21 5 | 384 00 | 515 21 5 |
9年目 | 579 94 5 | 86 99 2 | 666 93 7 | 400 00 | 266 93 7 |
(表)初年度 1町歩概算
支出 | 188円23銭 | |
| 35円00銭 | 荒地起返 但1反歩3円50銭 |
| 10 00 | 肥溜5か所 但60荷入1か所ニ付3円 |
| 1 50 | 肥溜3荷 |
| 22 00 | 肥代 |
| 10 00 | 疏河堤除ソノ他 |
| 25 00 | 茶種2石 但1円ニ付8升 |
| 75 00 | 人足600人 但1人10株 |
| 60 | 役所入用 |
| 9 13 | 園長ヨリ小遣迄給料 |
利金 | 14円11銭7 | 但1割5分利 半年分 |
元利 | 202円34銭7 | |