目次
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近代編
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第二章 近代浜松の基礎
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第二節 殖産興業と地域の開発
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第二項 三方原開拓
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第二期気賀林と茶園の経営
百里園
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茶園はこれを百里園と称した。この称は、そのころ「縦百八十尺、横六十尺ヲ一圃トシ、之ニ茶種六百株ヲ播シ、合テ一千圃、茶株六十万ナリ、コノ一畦ヲ伸張スレハ百三十八里三十二町トナレリ、故ニ百里園ト号」したのにはじまったという(「上野晴五郎祝詞」『百里園風光』)。【官有園 共和園】百里園は二つに分かれ、その一つはさきに述べた士族の分で、他は「富民」の開拓地で、前者は官有園(明治十四年十二月如鉄社と称す)、後者は共和園と称した。