共和園規則が成ったのは明治七年九月で、「共和シテ永々親睦ヲ不失、又余沢ヲ子孫ニ遺サン事ヲ計リ、別ニ荒撫ノ地ヲ(中略)開墾シテ」茶園を造成するという趣旨で、身分の差別はしないで加入を許すが、開墾は出資者協議の上指揮に従い無給とし、銘々所有の反別は定めるが開墾料等は割合い、後年利益を得たときに一纒にして総反別割合加入の高によって配当し、他売を禁じ、どこまでも共和ということを本旨とし、十一年目にいたって「永世私有地」とすることにしている(次頁表参照)。共和園の出資者と開拓予定地は、気賀林一町歩、同半十郎一町歩、同鷹四郎一町歩、二反歩間宮鉄次郎、二反歩原良平、五畝歩山田久親、五畝歩荏原元武、五畝歩猪熊担三郎、四畝歩長命清発、三畝歩設楽清弘、三畝歩小西政敬、三畝歩三田村長章、二畝歩小池鋭五郎と合せて十三名、三町七反歩で、気賀一族がその大部分を占めていた。
初年 | | 3円75銭 | 開発費 |
| | 1 00 | 茶実 |
| | 50 | 播種賃 |
| | 2 50 | 培養賃 |
| | 30 | 糞瓶料 |
| | 36 | 諸雑費 |
| | 3 59 | 肥代 |
2年~ | | 2 50 | 耕耘料 |
4年 | | 4 00 | 肥代 |
5年目ヨリ | | | 芽代 |
10年目 | 元金返金見込 | |
11年目 | 地税上納永世私有地 | |
しかし明治九年五月当時に百里園の茶園化がどの程度に進んでいたかは明らかでない。なお字(あざ)名がなかったので初生・百くばり(配)などとよんだのもそのころであった。【三方原学校】三方原学校が三方原に住む士族たちの寄付金(気賀敬太郎・間宮鉄次郎・宗田熊吉・原良平・坂本太郎-浜松市常盤町出身の文学博士、元東大史料編纂所長、東大名誉教授の坂本太郎はその孫にあたる-等)によって創立されたのもこのころであった(「林厚徳祝詞」『百里園風光』)。