百里園茶製所 三方原救貧院

85 ~ 86 / 729ページ
 これよりさき、気賀林は明治八年一月三方原に新居をかまえ、ここで百里園の事務をとり、帰宅が遅くなると仮泊(明治十三年『淡庵日記』によると、一か月のうち半月ぐらいである)することにしていたが(現在長屋門が残っている)、十年十一月には新居の近くに製茶工場を新設し「百里園茶製所」(現存しない。棟札がのこっている)と名づけた。また、この十年四月には自宅近くへ「三方原救貧院」と称する救護機関を設立している。戸長の推薦による貧民を収容する施設であった、という(建物は産業組合などに転用され昭和十年まであったという)。
 
【林拝謁】明治十一年十一月一日明治天皇東幸の途次、浜松行在所(あんざいしょ)(第二十八国立銀行)で三方原開拓の功をもって気賀林は拝謁をうけた。けだし静岡県令大迫貞清の奏請によるものであった。しかし三方原在住士族の代表者はその名簿にはなかった。製茶の業も進み、十二年七月には三方原製茶共進会へ、また十月の横浜における製茶共進会には二等賞をうけ、収穫高も十三年には二万五千斤に達した。【祝賀会】五月八日大迫貞清は石黒務書記官とともに気賀林の招きで百里園を訪れたが、茶摘女・耕男千百人余で迎え、たいへんな賑わいだったという。