けだしこのころが気賀林のもっとも得意の時期であったといえよう。このときのことを同年発行の『開農雑報』第廿二号は近県雑報のうちに「浜松県下報告」として「実に御国産を増し産業の法を得たりと謂ふべし」と報道している。【十四年】また気賀林は十四年三月に拝謁と県令の視察を記録して『百里園風光』を刊行している。稿を寄せるもの静岡県令大迫貞清、元浜松県令林厚徳、遠州中川村医員荻原定通、遠州医員高部春庵、松島十湖、小栗松靄、井伊谷祢宜山本金木、心造寺住職松井弁勇、西伝寺住職赤沢倫応、浜松の福井忠利・飯島哲斎・田畑省所・山田信富の多数に及び百里園役員の西谷政良・長命清発・荏原元武・富永安昌・荒川隆久の五名も祝の漢詩を寄せている。

百里園風光